


HISTORY
エレキットの歴史
イーケイジャパンは1949年に前身である嘉穂無線株式会社が創業したことから始まります。
1970年代の電子工作キット「エレキット」発売、1980年代の「MOVIT」シリーズ発売と
全国のものづくりファンの皆様に支えられて1994年に分社化し、イーケイジャパンはおかげさまで設立25周年を迎えました。
これまでのイーケイジャパン
嘉穂無線ホールディングス 取締役会長 柳瀬真澄
(イーケイジャパン 初代 代表取締役)

嘉穂無線ホールディングス株式会社 取締役会長 柳瀬 真澄
(株式会社イーケイジャパン 初代・代表取締役社長)
(株)イーケイジャパンの代名詞である電子工作ブランド「エレキット」は、1973年、嘉穂無線(1949年創業)が運営する「カホパーツセンター」の店内に「エレキット製品開発室」が設置されたところからスタートしました。電子パーツの売場で、科学雑誌の切り抜きを手に一つひとつ部品を探している子どもたちを見た創業者が、「必要なパーツが一つにまとめられたキットがあれば喜ばれるのでは」と思い立ち、電子工作キットの開発に着手したのがその始まりです。
私は1977年からこの事業に従事しましたが、当時、倉庫の一角を間借りして作った「開発室」は2、3台の机が置かれただけの狭い空間で、雨漏りがひどく、大雨が降るたびバケツで水を汲み出していた光景が心に残っています(笑)。その後、1978年には「エレホビー事業部」が発足。事業の拡大に伴って事務所の増設・移転を重ねたのち、1994年、現在の太宰府市都府楼南に新社屋を建設、「株式会社イーケイジャパン」として分社・独立を果たしました。
エレキットは、単なる玩具ではなく、〝理科離れ〟が進む中、社会に必要とされる〝これからの人〟を育てることを目的に開発した製品です。子どもたちに科学への興味関心を持ってほしい、楽しみながら知識と技術を身に着けてほしい、という強い願いから、商品開発と同時に、工作教室や科学イベントなど様々な啓蒙活動にも力を入れてきました。
また、作って楽しむ前にその製品の持つ背景を理解してほしいと、説明書には製作手順だけでなく、そこに関わる原理・法則や様々な科学的情報を盛り込みました。まるで読み物のような取扱い説明書は制作に手間も費用もかかる代物でしたが、そもそも子どもたちが切り抜いて持っていた科学雑誌の記事は、実は当社の社員が委託を受けて連載していたものだったという裏話もあるように、こうしたアウトプットの手法は当社の得意とする分野でもあり、これを高く評価していただいたことで、教材として採用してくださる学校も増えました。未導入校の先生方からも「予算の都合で、説明書だけでも売って欲しい」というご要望が多く寄せられるまでになり、こうした流れから、1980年代には、電子工作情報をまとめた自社編集の電子工作マガジン「電子くらぶ」を発行するに至りました。
これは近年になってからの話ですが、ある時利用したタクシーの運転手さんと世間話をしている中で、その方が幼い頃エレキットのユーザーであったこと、親になり今度は息子さんにエレキットを与えたところ、興味が深まり、理系大学への進学、その後の就職まで大きな影響があったこと、そして今、次はお孫さんにエレキットを贈りたいと考えておられることを知りました。〝思い〟や〝志〟を込めて生み出した製品が、それを手にしてくださった方々のお役に立てたという嬉しさを知ると同時に、この事業をやっていて良かった、と心から思えた出来事でした。
また、2014年、イーケイジャパン社屋の一角に、嘉穂無線が次世代のデジファブ市民工房「ファブラボ太宰府」を開設した際、そのオープニングイベントに講師としてご登壇いただいた、日本のものづくり文化を担うトップリーダーの皆さんが、口々に「小さい頃、エレキットを作っていました」「電子くらぶを購読していました」と仰ってくださったことも、私たちにとっては大変象徴的であり、嬉しい経験でした。
企業として独り立ちをして以来25年、イーケイジャパンでは、従来の電子工作キットに加え、プログラミング的思考を学ぶための基礎的電子回路モジュールやロボットなど、STEAM教育の時代に沿った新しい製品を世に送り出し続けています。
それを手にしてくださるお客様に、どんな価値を提供し続けられるのか。その使命感と探求心を忘れることなく、この先の未来も新しいものづくりを進めていってほしいと願っています。
元社員 福田の思い出
「あのころのアオハル」
ボーリング大会を企画したり、プレジャーボートを船長ごと借りきって博多湾クルージングを楽しんだりと、エレホビー事業部に入ったばかりなのに、仕事の事より遊ぶのに夢中になっていました。(笑)
ある夏の日、エレホビー事業部のメンバーや本社総務の人たち大勢で、シーサイドバーベキューをするプランを立てて、仕事の終わった人から食材や道具を準備して、次々とクルマに乗り合わせて出発して行きました。
私は仕事の都合で遅れて出発。薄暗くなり始め、目的地にさしかかる頃に、脳ミソに電撃が走りました。あろうことかバーベキュー用の肉を忘れていたのでした・・・!わざわざ会社の前のお肉屋さんに頼んで何キロかを取り置きしてもらっていたのに、受け取らずにここまで来てしまっていました。
それからのことは夢の中の事のような、ぼんやりした記憶ですが・・・。
途中のいろんな店で、ハムやら何やら、手羽や豚肉も、手に入った牛肉だけでは足りないので、とにかく買い漁りました。
大原海岸に着いた時はもう真っ暗。腹ペコ状態の上に肝心の牛肉が全く足りないのだから非難轟々。
それでも真夏の夜のシーサイドバーベキュー、なーんか楽しかった雰囲気は覚えていますねぇ~。・・・あ、こんな思い出で良いですか?(笑)


太陽電池キット、初の商品化

1992年にエレキットで初の太陽電池をエネルギー源として動く「ソーラーカーZ」が商品化されました。 この年はブラジル地球サミット(環境と開発に関する国際連合会議)が開催された年でもあり、環境に対する関心が高まってきたころでした。 ソーラーカーZは、社内の新商品コンペティションで応募されたアイデアをもとに商品化され、その後、当時の太陽電池を使用したフラッグシップモデルのスーパーソーラーカーへと引き継がれ、現在のソーラーエネルギーシリーズへと受け継がれています。



会社のお引っ越し


それまで福岡市南区にあった事務所を、現在の太宰府市に移転しました。 それまでは嘉穂無線株式会社と同じ社屋に「エレホビー事業部(後にエレキット事業部に変更)」として入っていましたが、学問の神様である「太宰府天満宮」があるこの地に移転し、教材・教育事業に注力していくことになり、現在に至っています。

社員 坪内の思い出「私の財産は・・・」
私が入社したのは、イーケイジャパン設立と同じ1994年です。
当時20歳だった私は、全く慣れない制服でしたし、触ったこともないワープロの使い方から教わったり、先輩達の後ろをついていくのに必死でした。
沢山の方達との出会いこそが私の25年間での何よりの財産です。
この財産を大切にしながら、今後のイーケイジャパンが、これまで支えて下さったお客様や社内のスタッフにも愛される存在であり続けるよう、この先も社員の一人として前に進み続けたいと思います。

海外生産の取り組み

1995年はエレキットが本格的に海外での商品生産に取り組んだ年となりました。 この年の海外生産は、中国の工場でのハイパーペピーⅡ(MR-969)の生産でした。 この工場は、香港から中国本土の深センに入り、そこから車で2~3時間くらいの場所にありました。 現在の深センは「アジアのシリコンバレー」などと呼ばれていますが、当時は高いビルもあまりなくまだまだ発展の途上にあるという感じでした。 工場とのやり取りでは、商習慣などの違いからなかなかうまくコミュニケーションが取れず、細かいニュアンスの指示がうまくできないなどの苦労もありました。
元社員 山本の当時の思い出「MOVIT-LAB」
開発に携わらせてもらった商品はたくさんあるので、一番の思い出って言われると難しいです・・・(汗)
いつも発売前はドキドキしてましたし、いろんなミスを夢で見て飛び起きることもしょっちゅうでした。
そんな中でも思い出深いのは、MOVIT-LABですね。
Windows95が発売されて間もなく、ロボットアームが発売されて、このロボットアームをパソコンから動かして、プログラムの勉強ができるようにしよう!ってコンセプトで開発スタートしたのですが、当時子供も遊べるものでそんなものがどこにもなくて、開発は難航、ずるずると遅れぎみに...
そんな中、当時の部長にはっぱかけられて、この野郎って思いで、デバッグ、説明書の原稿作りと校正を繰り返しやってたのを思い出します。(笑)
とにかく、なんとしても世の中に出してやるって思いでぶっ通しで作り続けました。
一所懸命やってると回りも応援してくれて、特に社内の人達には助けられました。説明書の校正の協力だったり、夜食の差し入れでしたり・・・(ある社員が持ってきてくれたおでんみたいなやつ、美味しかったですねー)
そんな苦労して発売させてもらった製品が、世の中の人達に評価されて、喜んでもらえた時には開発者冥利に尽きるっていうか、凄く幸せな気持ちになったのすごく覚えてますね。
本格的な中国での生産開発
この頃から本格的に中国の企業と連携しながら商品を開発するウェイトが増えてきました。 今は世界の注目を浴びる都市シンセン付近によく出張に行くようになりました。 そのころのシンセンは香港との出入り口の駅周辺にだけちょっぴりビルがあって、あとは広大な空き地と畑で舗装状態が悪かったので、移動するのは毎回ラリーのようだったのを覚えています。
元社員 瀬戸山の思い出「ハイジャック事件」
忘れもしない1997年1月20日、伊丹発福岡行きのハイジャック事件に遭遇したことは、イーケイジャパンで働いていた中でも強烈な思い出でした。
犯人は私の斜め左の2~3列前に座っていたそうです。私は飛行機に乗り込んで直ぐに爆睡し全く気づきませんでした。(笑)
アナウンスで「当機はハイジャックに合いましたが、犯人は逮捕されました。」と言われはじめて気づきました。
ロビーで待っている間に、イーケイジャパン社員や私の家族から、携帯に心配する連絡が来ましたが、私はロビーのテレビのニュースを「ほうほう」と観てました。
これもイーケイジャパンでの思い出で良いですよね?
元社員 篠倉の当時の思い出
「エレキットストアの起ち上げ」
当時私は工場勤務しておりました。
急速なインターネットの普及により、エレキットのような商品こそネット通販で売るべきと考えて、企画書を提出しました。
ちょうどホームページリニューアルの必要性も感じており、ネットで情報を配信し、ネットで商品購入ができるようストア機能も並行して企画提案しました。
プロジェクトチームを立ち上げ、半年以上の準備期間を経てホームページリニューアルが完成。
併せて、メールマガジンも登録配信開始。
登録会員を増やすため、手作りチラシを工場に持ち込んで、商品に封入してもらったりしました。
なんやかんやで、メルマガ登録者数が1万人を超えた時は感無量でございました。
ストアオリジナル商品やオリジナルセットを企画したり、夏休み工作需要に備えて特設サイトを制作したりいろいろやりました。
夏休み工作で検索すると検索エンジンのTOP3以内に入るようになったこともあり、1日の注文件数が300件超え。出荷にてんやわんやで大変だったこともいい思い出です。
私自身も子供の頃にハマっていたエレキットの仕事ができて、大変だったけど楽しい毎日でした。
退職して10年以上になりますが、これからもずっとエレキットのファンの一人として応援しています。
元社員 栄の思い出
「思い出のワックスがけ」
「自分達の働く場所は、自分達で綺麗に!」をモットーに、若手社員は全フロアーのワックスがけ合宿がありました。このイベントでチームワークを高めていました。懐かしいですね・・・。

22[tu:tu:](EKF-01) 想ひ出噺
 想ひ出噺](../assets/img/history/img_modal07.jpg)
長年人気だった、入門用真空管アンプキットTU-870の全面的モデルチェンジを考え始めた頃の話。
地元福岡のデザイナー、二俣公一(ふたつまた こういち)氏に相談している中で、当時普及し始めていたデジタル(class-D)アンプと真空管を組み合わせたハイブリッド構成のアンプを思いつき、全く新しいコンセプトで開発を進めていきました。
そして二俣氏のデザインによる非常に洗練されたスタイリッシュなアンプの試作品が完成したものの、外観、構成ともに従来の真空管アンプとは概念が全く違うことから、それまでのエレキットの販路、客層にはマッチしないと判断し、しばらく商品化には至らず、地道なマーケティングリサーチを行いました。
その後2009年に良き協力者に恵まれて販路が開かれ、(キットではなく)完成品で、エレキットとは別ブランドとして発売に至りました。商品名は二俣氏の発案で、2本の真空管、2個の大きなダイヤルから22[tu:tu:]と命名しました。
販売は国内のみで、国外には一切プロモーションしていなかったにもかかわらず海外からの問い合わせが多く、2011年にはイギリスのD&AD award のプロダクトデザイン部門で入賞!(なんと、AppleのiPad(最優秀賞)とiPodの間の賞でした!) 同年にサンフランシスコ近代美術館(SFMoMA)の永久所蔵品にも選定されされました。



ハイブリッド真空管アンプ「22[tu:tu:]」が英国D&ADアワード イエローペンシル賞ノミネート。米国サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)永久所蔵品に選定される。
代表取締役社長に柳瀬隆志就任。
社長 柳瀬隆志の思い出

アルスエレクトロニカとのコラボ商品開発

2012年に商品化した「SWITCH(JS-6113)」は、オーストリアのリンツ市にあるアルスエレクトロニカ・フューチャーラボとの共同開発で開発された商品でした。
アルスエレクトロニカは、アートやテクノロジー、サイエンス、メディアアートの分野を研究や展示、その分野の優れた作品や研究などの表彰などを行っている機関で、フューチャーラボは研究・開発部門です。
SWITCHは、オーストリアでもワークショップを開催し、多くの方にご参加いただきました。
https://ars.electronica.art/futurelab/en/project/switch/

工作機械の革新
3Dプリンター、レザー加工機、CNC基板ルータ導入: これらの装置を導入したことで、短期間で、かっこいい試作品を 作れるようになりました。 今までは材料を切った貼ったする手加工で、脳内補完が必要な 不格好なものだった試作機が、図面通りのイメージで作れる ようになりました。
エレキットウェブサイトリニューアル
この頃からスマートフォンでのウェブサイト閲覧が増え、
同時にガラケーからのアクセスが殆どなくなりました。
この機会にパソコンからもスマートフォンからも快適に閲覧できるようなウェブサイトをということで、一斉リニューアルを実施。
ベースカラーを濃いめの青から白に変更し、コーポレートカラーのエレキットブルーをアクセントに入れたデザインへ変更しました。
NEXT
これからのイーケイジャパン
イーケイジャパン 代表取締役社長 小澤 慶太郎

イーケイジャパン 代表取締役社長
小澤 慶太郎
私は全くの異業種から転職して入社し、理系出身ではありますが非エンジニア、元エレキット少年でもありません。しかしながら、だからこそエレキットの価値が際立って見えるような気がします。キットを組み立て、正しく動かすためには大事なことがいくつもあります。工具を正しく使って部品を丁寧に切り取ること、説明書を注意深く読み解くこと、部品と部品を慎重に組み上げていくこと、動かなければ前の工程に戻って手直ししていく根気強さ。そこには、実際に手を動かして作ってみてはじめてわかる、ものづくりの原体験ともいうにふさわしい要素がたくさんつまっています。
今回の25周年企画に際し、初代社長、OB・OGの皆様、第一線でご活躍中の方々にお話を伺ってきました。
そこに見たのは、いつの時代も、はじめてものづくりをする人たちにものづくりのきっかけを与え、寄り添うエレキットの姿でした。
改めて言うまでもなく、ものづくりを取り巻く環境は劇的に変化しています。それに伴い、ものづくりに求められる役割も変化してきています。
社会を次のステージに押し上げていく上で、その要素のひとつとしてイノベーションは欠かせません。そのため、プログラミング教育が小学校段階から必修化され、全学部・全大学においてAIに関する教科が履修義務化されようとしています。
ものづくりと教育はますますその緊密性を増しています。
これからの時代に求められる人材の要件も、ものづくりの作法も大きく様変わりしようとしているのです。
一方、初めてものづくりをする人にとって、キットを前にしたワクワクやドキドキ、作り上げたときのキラキラした達成感といった素朴な感動はこれからも変わることはないのではないでしょうか。
変わることと変わらないこと。時代時代において変化し続けるものづくりの作法に対応していきつつ、これからも変わることのないものづくりの単純な楽しさを大切に、様々なチャネルを通じてより多くの方々にものづくりのきっかけを与えられるよう、私たちの次なる挑戦がはじまります。
私たちはサイエンスキットメーカーとして、はじめてものづくりをする人たちにものづくりのきっかけを与え、寄り添うことで”未来のエンジニア”を育成することに貢献していきたいと考えています。